20歳の夏
毎年夏になるとどこかおかしくなるようで、夏休みが始まる前と後で全く違う自分になっていることを実感する
学校がなくなって一人になる時間が増えて色々なことを脈絡もなく思い出す。
高3の時から今まで、誰にも見せない日記を毎日欠かさず書いていた。
書かないと忘れてしまう気がしたのだ。今一瞬の、綺麗なだけじゃないもっとぐちゃぐちゃとした複雑な感情を。
高校生の時の日記を久しぶりに開いた。
高校生の時の日記を見返してみると自分が何者で将来何になれるのか常にぐるぐる考えて憂鬱でとがっていて、大人を俗世に染まった汚いもの、大事な感情を忘れてしまったものとして軽蔑していた。
学校では、ずっと一緒にいたわけではないけれど、私と考えが似ている友達のろろちゃんがいた。
つまり、自分たちだけが色々なことを考えていて特別だと2人で思っていたのだ。
ろろちゃんと、よく放課後に海が見えるバルコニーで、真っ赤に熟れた線香花火のような太陽が水平線に沈んでいくのを眺めながら話をした。
鳥のようにどこにでもいける存在になりたいけどちゃんと地に足がついてもいたい、センチメンタルな感情を忘れて大人になりたくないし、たくさんやるビッチにもなりたい。自分の好きなことだけして生きていたいし、誰かのためにもなりたい。有名になりたいけど誰の目にも触れたくない、早く大人になって東京に行きたいけど、ずっと制服を着てこの海の見える学校で女子高生でいたい。
この水彩絵の具のような、淡いグラデーションの空に溶けたい。
この瞬間のまま歳を重ねず時が止まればいいのに、と本気で思った。
でも私たちも含め人間は無力で、大きな流れにはただ身を任せるしかないのだ
大人と呼ばれる年齢になって、半年以上経った。
だいたいやりたかったことは叶っているし、お洒落で洗練された東京の街は狭く息苦しい田舎より何倍も楽しい。一度一人暮らしをさせて、色々な世界を見ることを許してくれた親に感謝している。
会わなくてもSNSをフォローしておけば、高校の時の同級生が今何をしているのかはだいたい分かる時代になった。
いつものようにSNSをほぼ無意識にチェックし、その一環で見たインスタグラムのストーリーに「かんぱーい!!」と大人数でジョッキをぶつける同級生が映っているのを見て、ふっと寂しくなってしまった。
制服を着ていた時のみんなは、やっぱりどこかに行ってしまったのかなぁ
社会に出たら繊細でいることなんかきっと甘えなんだろう。それよりも目の前のやらなきゃいけないこと、責任が増えて自分の感情に目を向ける時間などなくなって、お酒とか異性とか、そういうパッとしたわかりやすく楽しいものに流されていく。だって不透明な将来を考えることはめんどくさいし、不安で怖いから。
私も決して例外ではないことを思ってどうしようもない気持ちになり、思わずろろちゃんに連絡した。
「……そうだね、あの時は大人になった私たちを予測していた、感性も研ぎ澄まされていた。けど、今怖いと思えるのもいつまで続くのかという感じ。考えるのも鈍くなる。」
「……けど私、信念だけは変えない。感性とか鈍くなるのは大きな流れの中ではしょうがないのかもしれないけど、自分のやりたいこと、正しいと思ったことには従いたい。その行動に責任を取るのが大人になるってことなんだと思う。」
もちろんしなければいけない義務もある、世の中はそんな甘くなく、社会は理不尽なことだらけだろう。でも私は、あぁ、やっぱりろろちゃんがいてくれてよかった。と思った。
昔の何も知らずとがっていた自分を今でも誇りに思うし、「あの頃は若かった」なんて絶対に言わず一緒に生きていこう、と決めた
変わっていくのは多分、美しいことなんだ。